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私的年代記


●はじめに

私は特に年始の抱負とか目標を掲げるようなことはあまりしないのですが、 それでもここ数年を振り返ってみると、何かしら変わったことをやっているようです。 このくらいの年齢になると、仕事や日常に押されてただダラダラと時間だけが流れてしまいがちです。 年始の目標のようなものは立てなくとも、チャンスが巡って来たらつかみかかるような姿勢は必要だと思います。

ここらでひとつ今まであった出来事を年表形式にまとめてみることによって、 意識レベルを高めていく材料にしたいと思います。

●年表

◆1968年(0歳)

・上から姉、兄、私の3人兄弟の末っ子に生まれる。



◆1972〜1980年(保育園〜小学校)

・田舎の中の田舎なので、同級生が5人しかいない。 しかも合併してしまったので、私の通った校舎は廃校になってしまった。

・小学1年生の時に兄のお下がりで「学研の科学」をもらった。 なぜか兄は教材に手を付けてなかったので、いいおもちゃだった。 なかでも6年の科学の教材「ゲルマラジオ」には大きな感動を覚え、 電子工学にハマるきっかけとなる。

・小学校時代の私にとって理科室は宝島であった。 今だから白状するが、理性の乏しかった当時の私は、数回にわたり実験器具を勝手に持ち出し、 後で見つかってさんざん叱られたという過去がある。

・小学校時代から童話などはほとんど読まず、図鑑、電気電子、 機械、人体のしくみ、宇宙、化学といった非常に偏った本ばかり読んでいた。 そのせいかどうかはわからないが、道徳的な部分の成長が遅れていたと思われる。

・小学3年生の時の担任に「豆博士」と命名されるが、 生活態度は最悪で、かなりの問題児だったと思う。



◆1981〜1986年(中学〜高校)

・中学からは同級生100人以上の学校になり、学校生活に戸惑いはあったが、 学期末テスト等では上位10位以内に入っていたので少し自信過剰になる。

・本当は器械体操をやりたかったのだが、中学には体操部がなかったため、 陸上部で棒高跳びをやることになる。しかしなぜか中学では良い成績を残してしまったっため、 高校に上がった時に体操部には入らず、陸上部を続けてしまう。 結果的には県内で3位という成績を残せたので選択は間違ってなかったのかも。

・中学3年生の時、友人の家で初めてギターを弾く。 「コード」を押さえるだけで簡単に曲が弾けてしまうことを初めて知って熱中するが、 ギターを手に入れる術がなく、友人の家でしか練習できない為、悶々とした数年を過ごす。

・高校の友人から、学生服の付録で貰ったというギターを2千円で譲り受ける。 しかし、この頃の私はHR/HMにハマリかけていたし、生音がデカイのはいただけないので、 早速エレキギターに改造した。 ボディはラワン材を貼り合わせ、形はなぜかスタインバーガーのようなシンプルな形。 ピックアップは釘にエナメル線を巻いて、下には黒板に貼り付けるマグネットを並べた手作りである。 ピックアップが手巻きではどうしてもインピーダンスが低くなってしまうので、 マッチング用のトランスをボディにネジ止めしてあった。

・このギターがあまりにもみすぼらしかったのだろう。 滅多にそういうことを言わない親父に「ギター買ってやる」と言われて楽器屋に連れて行ってもらい、 白いボディのストラトタイプのエレキギターを買ってもらった。 親父的にはフォークギターを買ってやりたかったと思われ、 「なんだ、エレキギター買うのか?」と言われたが、こればっかりは譲れないのだ。



◆1987〜1991年(大学)

・大学まで進んだのは兄弟の中では私一人。 意気揚揚と入学したが、大学とはまるで4年間の夏休み。バイトとギャンブルと女とバンドにハマリ、 勉強そっちのけで遊びまくる。しかし、理系大学はそんなに甘いものではなく、1年留年し、 しかも一番難解とされている研究室に入れられてしまい、最後の1年間は4年分(大げさ)の勉強をするハメにあう。



◆1992年(24歳)

・バブル崩壊により、この年を最後に求人数は減少の一途を辿る。 滑り込みセーフといった形で大企業に入社。

・新人研修は半年近く続き、非常に退屈な時間を過ごす。 なんせ理系も文系もひとまとめにして技術的な研修だったので、 私にとっては知っていることばかり。居眠りしていると怒った講師に 「この問題やってみろ」とか言われたりするが、簡単に解けてしまう。 後で聞いた話では、「居眠りしてるくせに、問題を解かせても解いてしまう厄介な新入社員」 というレッテルが貼られていたらしい。

・同僚に誘われてレーシングチーム「interseptor」に入り、 ジムカーナやカートレースに参加。カートでは体重が軽いこともあって、 ローカル大会で2位になったこともあるが、ジムカーナではまともな成績が出なかった。 自分では車が「2000ccのソアラ」だったから無理もないと思っている。 そもそもソアラでジムカーナに出ること自体間違っていると思われ、 仮に藤原拓海が乗ったとしてもたいしたタイムは出ないんじゃないかなぁ。

・筑波サーキットの走行ライセンスを取り、友人と時々練習走行をしていたが、 走行料を払ったり予約したりするのが面倒なため、夜な夜な峠を攻めていた。若気の至りである。



◆1994年(26歳)

・「就職3年目だからそろそろ結婚」というわけではないが、 研修員から企画員に昇格し、給料的にも家庭を持つことが可能と思われたので結婚した。 しかし、付き合って7年目の結婚だったので、新婚には見えないような雰囲気だったという。 カミさんは女二人姉妹の長女で私は末っ子。婿養子として新姓を名乗ることになる。

・もう5年以上前から欲しかったのだが、 高くて買えなかったスノーボードをついに購入。価格が下がって来ただけでなく、 金回りも少し良くなったのだ。



◆1996年(28歳)

・婿養子なのでいずれは、カミさんの実家に入るか、 カミさんの実家がこっちに引っ越すかの選択をしなくてはならない。 むこうの親にはこちらに引っ越してもいいと言われていたのだが、 なぜか知り合いのツテだといって地元企業の入社面接の話を持ちかけられた。 私も私で、特に反発する理由もないので受けてしまった。 田舎の企業なので大企業からの転職とあれば申し分ないと採用になり、 転職することになる。



◆1997年(29歳)

・会社の上司からノートパソコンを譲ってもらい、 これをきっかけにパソコンと本格的な付き合いが始まる。

・Nifty-Serveに加入し、新しい情報源が手に入る。

・市報で募集していた「起業家セミナー」を受講。 起業家に必要なのは、手法ではなく精神であることを学ぶ。 精神論が主たる内容なので、直接的に起業する場合の参考にはならないが、 最終的に起業しなくても、その後の生き方に大きな影響を与えるものと思われる。



◆1998年(30歳)

・蔵王ライザのボーダークロスに参加。2回出場したがいずれも2回戦で敗れる。 敗因は、一回で燃え尽きてしまうというスタミナの無さだと思われる。 しかし、毎回数人が骨折などの怪我でリタイヤするような過酷なレースに出場するだけスゴイと 自分では思っている(単に無謀なだけかも)。

・飼っているチワワがテレビ番組に出れそうになる。お台場のフジテレビまで出向いて 収録まで行なったが、放送はされなかった。

・ダイアルアップのプロバイダー(Jan)に加入。パソコン通信に加えて、 また新しい情報源を手にする。

・非力で、拡張性に乏しいノートパソコンでは物足りなくなり、 2ヶ月くらい時間をかけて吟味して選んだパーツを買い、自分でデスクトップパソコンを組む。

・なんとなく目に留まったLinuxのインストール本を買って読んでいるうちに、 ドップリとハマり込んでしまう。しかし、まだこの時点ではインストールオタク止まりである。

・ダイアルアップより数段速く、常時接続のケーブルテレビネットワークに加入。 同時にLinuxをルーターとして設定し、家庭内LANを敷設する。インストールオタクから少し昇格?



◆1999年(31歳)

・仕事も家庭も忙しく、間を縫って本を読むのに限界を感じ、 速読なるものを受講し始める。しかし、右脳を使った本格的な速読は小学生以下でないと習得は困難であり、 20倍とか30倍の速さには達しなかった。が、以前の私よりは確実に速くなっており、 以前の5倍くらいの速さで読めるようになっただけでも収穫である。

・飼っているチワワを交配し、子供を増やす。子供達全てに血統書を付けるため、 ジャパンケンネルクラブに加入。犬舎登録をする。

・Libretto50をソフマップより中古で購入。以後お気に入りの一台となり、 毎日会社に持っていく。



◆2000年(32歳)

・結婚して7年目にして子供が出来る。12月13日に長男誕生。

・子供が出来たからというわけではないが、6月1日をもって煙草をやめる。 アレン・カー著作の「禁煙セラピー」を読んだだけである。



◆2001年(33歳)

・鉄アレイしかなかったトレーニング器具を大幅に拡張し、 地下室にホームジムを造る。その頃から理論に目覚め、雑誌や書籍を買い漁る。

・入院している間に使おうと富士通のLOOXを買う。

・子供もだいぶ手がかからなくなったので、ずっと我慢し続けた痔核を切り取ってもらう。 入院中、抗生物質に拒絶反応を示して、40℃近い熱が1週間も続いて生死の間をさ迷ったが、 大病院に転院してなんとか収まった。せっかく買ったLOOXは結局使わずじまい。

・子供をおふくろに預けて浜田省吾のコンサートに。 このツアーを最後に、しばらくはコンサートをしないとのことなので、行っといて良かった。

・年末にSONYのCLIEを購入。



◆2002年(34歳)

・ビデオキャプチャーがしたいため、パソコンをリニューアル。 PoloTというベアボーンキットを使って、セレロン1GHzを組む。

・釣りを本格的にやりたいということで、4級船舶免許を取る。

・メモ帳までデジタル化が進んだのを機会に、Webページを作る。 趣味のデータを一括管理するためだったが、データが多すぎて纏めるのにはかなり時間がかかりそう。

・ホームセンターで、パークプレーンを買ったのをきっかけに、ラジコン飛行機にハマる。

・市報で募集していた「発明学校」に参加する。特許取得の方法や発想の転換、 地元企業の社長や特許取得の経験者による講義などを受けたりする月一回の勉強会である。



◆2003年(35歳)

・まだ2歳ではあるが、子供を幼稚園に通わす。この子ならやっていけそうだったのと、 なるべく早いうちから多くの人と接触したほうがいいと考えていたからである。 そして、3歳になる頃には、期待通りのめざましい成長を遂げた(と思う)。

・上の子供を幼稚園に通わせることによって母親に多少の余裕が出来るだろうと判断して、 第2子を産む。長女:9月17日生まれ。

・2児の父ともなると、生活の中心が子育てになってしまい(カミさんの妊娠期間も含む)、 自分の歴史を刻むどころではなかった。



◆2004年(36歳)

・スノーボードシーズンの終わり際に、肩の脱臼と、上腕骨の大結節部を骨折。 全治3ヶ月の重傷を負い、7月までリハビリに通う。

・半年くらい前からビジネス系のメールマガジンを購読してはいたものの、 他人事のように受け取っていた。しかし、今年に入ってから「やろう!」という気になり、 下積みを始める。

・ビジネス書、自己啓発書を読み漁り、東京までセミナーを受けに行くなど、 モチベーションが非常に高い日々を過ごしてきた。なおかつ、セミナーオタクで終わらないように 来年に立ち上げる2大プロジェクトを実現する準備を進めてきた。

・今年中には公開できなかったが、オンラインソフトをコツコツと作り上げた。 ベクターに作者登録まで済ませてあるので、あとは取説やWebページ等を揃えるだけだ。

・来年末に販売する商材の拡販のために、メールマガジンの発行準備をする。 年内には発行できなかったが、年明けには発行できる予定。



◆2005年(37歳)

・2年前から発明学校に通っていたが、今ひとつ成果が出なかったが、今年になって発明関連でいろんな発展があった。

・きっかけは「デジカメ用水平ガイド」の発明。

・特許を申請し、発明学会主催の「身近なヒント発明展」に応募し、1800件中100件合格の1次審査に合格したこと。

・「水平ガイド」の試作や特許申請をするにあたって、発明学校のスタッフとも交流が深まり、

・発明学校では講師を勤めさせてもらったり、

・川西町少年少女発明クラブの指導員として手伝いをすることにもなった。

・また、新しい習慣として、1日1アイデアを必ず出す。と自分に課し、CLIEで記録を開始した。たまに出ない時もあったが、出るときは1日に5件くらい出るので、平均すると1件以上出したことになる。 ただ、内容は人にみせられるような斬新なアイデアばかりではなく、伊東家の裏技的なものや、苦し紛れに出したようなものが多数を占める。 しかし、なかには実践して成果が出ているものもあるし、頭の訓練という意味でも有意義であったと思う。

・息子もだいぶ大きくなり、英語教室とサッカー教室に通わせる。私よりもカミさんの方が乗り気なのだ。

・その他にも、ブログやSNSなども始めたり、アドセンス、アフィリエイトも始めた。

・セミナーや情報商材等は昨年の3倍以上受講して、忙しい毎日を送る。

・もちろん、良いことばかりがあったわけではない。愛犬「ナナ」が心臓病で死亡したり、接触事故を起こして免停になったりと、悪い事件もあったが、それも含めて、めまぐるしい1年であった。



◆2006年(38歳)

・To be continued.....




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